2015-07-14

この目を失う前に

東京に引っ越して、1年と3ヶ月がたった。

いつもの帰り道、最寄駅を出て少し歩いた道の角に、自販機が5つひしめきあっているところがある。
その角にある家は少し前から工事をしているようで、気付いたときからネットをかぶっていたけれど、自販機たちは静かに道を照らして呼吸を続けていた。
なぜかそこを通るとよく冷たいココアが飲みたくなって、ときどき甘ったるいミルクココアを買っては缶を片手に坂を下って帰る。

あるとき、突然彼らが消えているのに気づいた。いつも照らされていたはずの道の角が少し暗くて、その日の帰り道は、なんだか単調でただまっすぐ続いているようだった。

その次の日、またいつもと同じ、ぎゅうぎゅうに詰まった地下鉄を降りて改札を出ると、左側にあるはずの売店が姿を消していた。朝まではあったはずなのに、そこにはムダにぽっかりと空いたスペースが剥き出しになっていて、床に残されたヤケた跡だけが、時間の蓄積を物語っているようだった。私はしばらく立ち止まってそれを眺めていた。終電間際の電車を降りて足早に家路を急ぐ人たちが横を通り過ぎていった。

いつも誰かが1人で立っていたその売店は、営業中にときどきカーテンみたいな布がかけられて閉まっているときがあった。トイレに行っているのですぐ戻ります、といった内容の札がかけられていて、その姿に初めてそこにいる人の存在を見ていたことを思い出していた。

そうしてまた私もいつもの帰り道を歩く。昨日消えたはずの自販機たちが、新しいものにすり替わって、そこにいた。角の建物はネットが外されて、いつのまにか新築の一軒家になっていた。

少し年季の入って薄汚れた自販機が懐かしかったけれど、新しい5人組は新入社員みたいに張り切って見えたから、応援しようと思った。前と同じあの甘ったるいミルクココアを買って、缶を片手に坂を下った。


いつのまにかなくなって、いつのまにか現れて、東京は、そんなことの繰り返しで街ができている。小さな「さよなら」と小さな「はじめまして」に、気づけるときと気づけないときがあって、それは私自身のバロメーターみたいに行ったり来たりする。

2011年の暗くて静かな渋谷の街が鮮明に焼きついているように、大きな変化はいつも強く痕を残す。それさえも、時間が経って一時の出来事になってしまったとき、それはまるでなかったことのように消えていってしまうのだ。
ひとつひとつの小さな移り変わりがレイヤーのように重なって、そこに桜並木のような派手な目印がなくとも、私の中の東京は出来ていく。

2014-04-20

見たことのある知らない道

イベントからの帰りの電車、扉の脇にぼけっと立っていたら次の駅に着いて、扉が開いて、ギターを抱えて乗ってきた人が友達によく似ていて、あの髪型、細い目、あのギターを持ってる姿はきっと彼だ、そう思い込もうとしたけれど、でもマスクをしていたから確信がもてなくて、それでも前に飲んだ時にあのカバンに似てるのもってた気がする、この電車の終点は彼の最寄り駅だったし、そう思い込もうとしたけど、彼は疲れてぐたっとして空いてる席に座ってしまって、その彼の前にはさっき六本木で一緒に電車に乗った男女が立っていて、あの話し方はまだ付き合ってるカップルじゃないと思うけれど、男性の手は女性の腰に当てられていて、彼らの会話の言葉の端々からは二人の空気の入り乱れたものがにじみ出ていて、そんな二人の先にいる彼に話しかけようかなどうしようかなって悩んでる間に私が降りる駅が来てしまって、結局声はかけられなくて、携帯の電池は切れてしまっていたからすぐにメッセージも送れなくて、もやもやしながら改札を出たら、こんなに寒いのに制汗シートのパッケージを口で加えた男性が駆け足でホームに向かっていて、その先を歩いていた男性のぐるぐるに巻かれたドレッドヘアーが、今日展示で見た友達の作品にあったミミズに見えてしょうがなくて、

たった数分のできごと
何の意味もないような光景
そんな中にもちょっとした勘違いと思い込みでたくさんのストーリーが埋まってる

2014-01-23

また同じ朝がくる

ずっと、いつか来ると思ってた日が、昨日やってきた。

私が美術の道にくるきっかけになった人で、ずっとネックになっていた人物が結婚したことを知った。

いつかこの日がくることはわかっていて、でもまさかこんなに早いとは思っていなかった。

当時は、彼が結婚したら何か変わるのか、子供ができたら何か変わるのか、なんて思いをめぐらせたりもしていたから、言葉ではうまく表せない、本当に何とも言えない気持ちだった。

昨日は、荒川修作についての講義をうけて、
何ヶ月ぶりかわからないくらい久々にアイライナーを買って、
今の私にはいつだって側にいてくれる大事な人がいて、昨日はその人も一緒にいてくれて、

何かの予兆だったのかもしれない。

そして、神様は優しいなとおもった。


正直、こんなに平和にこの日を迎えるとは思わなかったから、
それも同時に驚いたんだと思う。


最近、以前付き合いがあったような知り合いがどんどん結婚している。
子供ができた人もいる。

私も少しずつ年をとっているんだな、と思う。

私は過去の記憶に囚われる癖があって、でも、周りはそうやってひとつひとつ大きな決断を積み重ねて、姿を変えていく。

それが無性に悲しくなることもあるんだけれど、いつまでも悲しい、楽しい、そんな感情だけで生きているわけにはいかないから。

私もそろそろ大人にならなくちゃいけないのかもしれない。

今日は新しい一歩。
自分がこれからどんな生き方をしていくのか、少し楽しみになった。

2013-12-06

とびらをあける

とびらをあける

という言葉を聞くと、
別世界に行けると思う人が多いらしい。

とびらがあっても、急に別世界に行くことなんてできません。
その先も同じ世界がひろがっています。

とびらは、空間と空間を仕切るものであって、起動スイッチにはなりうる。
でもとびらをあけて、どこか別のところに逃げたくても行くことはできません。
そこに驚きはない。ただその行為が繰り返されてゆくだけです。

それをうまく伝えることができない。
刺激を生むのがアーティストなのか?

2013-11-04

ただの動物。ひとつの生き物。


スガダイロー五夜公演 2日目
スガダイロー×飴屋法水

ピアノ。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。

その言葉のフレーズが頭に染み付いてる。

そのときの、飴屋さんの手を差し出す感じが何とも言えなくて、
思い出すと体がじゅわっとする。

ピアノの歴史を語る飴屋さんの声はとても穏やかで、
それでいてとても危うい感じだった。
綱渡りをしているみたいな絶妙なバランスを保っていて。
最近、"絶妙なバランスを保った部屋"っていうキーワードが焼き付いてるんだけど、
まさにあの劇場全体がそんな感じだった。

スガダイローさんの演奏の入り、そして途中の間の切り方は即興とは思えない形で、
実は台本があるんじゃないかと疑いたくなったけど、
2人の視線の投げ合いが、即興だということを強く物語っていた。

ピアノの上を飛び回り、時に這いつくばって、その形をひとつひとつ確かめるように動いていた飴屋さん。飴屋さんにとって、あれらは生き物だったんだろうなと思う。
ピアノがなぜピアノ・フォルテのフォルテの部分がなくなってピアノになったのか、それは僕にはわからない。だってピアノはとても強いから。そう言ったときの飴屋さんの声が忘れられない。

そして何かに取り付かれたかのようにひたすらピアノを弾く、スガさん。

あの情景は、今思い出そうとしても、そっくりそのまま頭で再現することはできないと思う。

飴屋さんの動きはどれもひとつひとつが綱渡りで、
どこかひとつでもタイミングを間違えたら壊れていきそうだった。

ピアノを壊すときの振動、
どん、どん、って、下から沸き出してくる振動。
人の体ってすごい。


ひとつとても興味深かったのは、スガダイロー五夜公演、つまり音楽イベントのはずなのに、ほとんどの人がリズムをとっていなかったこと。。。
私はスガさんの演奏を聞いたのは初めてだったし、即興のイベントもあまり行ったことがないからわからない、もしかしたら黙って動かずにいるのが正しい聞き方なのかもしれないけど、でも音楽のイベントって、ライブハウスとかだったら、1人や2人、揺れ動いてリズムをとってる人がいたとしてもおかしくないじゃない?
それがあんまり見られなかったのは面白かった。

みんな、飴屋さんがひょいひょい動き回るのを目で追っていて、まるでBGMに演出された舞台のようにさえ。
でも、そこには生のピアノが必要で、その生のピアノを弾くスガさんが必要だった。
皮肉にも、それがBGMのように聴こえてしまいかねない状況はとても複雑だったし、私はまったくもって音楽をそんな風にとらえたくはないのだけれど。

終わったあと、
最後に、分解されたピアノの欠片が吊るされた舞台をおそるおそる撮ったけど、
やっぱりこんなのには意味なくて、
あそこにあった時間は取り繕うことのできない瞬間だった。


とりあえず自分が今回かなり学んで吸収したことは、
やっぱり行為はそこにあっていい。
自分にとって魅力的だと思うことをやっていい。
それを人に少しでも理解したいと思ったときの手法として、
そこにストーリーをつくって、フィルターをかけてもいい。
そのフィルターがうまいことみんなの目にかかって、人に見てもらうことができたら、もしかしたら人には少しでも自分のやっていることを理解してもらえるかもしれない。

人は、ただの動物。ひとつの生き物。
その事実を忘れてしまわないように、私は日々活動しています。

彼はピアノを弾く。
僕は弾かない。

2013-08-25

井の頭線と小田急線。

なにもかもが、
空間で、体積で、かさで、量でできていて、動物。

グラスも、メニューも、箸もスプーンも、あの人の手も、私の指も。

言葉が、視線と視線を遮る。

本当はとてもシンプルなはずなのに、
こんなに絡まっているのはなぜだろう。

2013-07-22

トポロジーと部屋と体積



これまで、かわいいZINEを見ることはあっても、
どうしても欲しい、と思えるものに出会ったことはなかった。

少し前にユトレヒトに行ったとき、
本当に金欠でどうしてもお金がなくて、
それでもどうしても欲しくなって買ってしまったもの。

それが、PHILIPPE WEISBECKERの"GREENHOUSE STUDIES"だった。




中身は、温室の写真とそのドローイング集。
特にカラーもなく、この表紙のテイストがずっと続いていて、
ドローイングも表紙と同じ線で描かれている。
お洒落なものや可愛いものは他にもあったはずなのに、
なぜかこれがどうしても欲しくて、買ってしまった。


今日、また改めて"トポロジー(位相幾何学)"についていろいろと調べていたら、
たくさんのいろんな点と点がつながって、線が見えかけた。

"トポロジー"という言葉を意識しないときから、
"やわらかい幾何形態"という言葉を使っていたこと。

部屋

体積

階段

スライム

全部の要素が一致して、このZINEを買わずにいられなかった理由がようやくはっきりした。


ひとつ気になっているのは、ユウジモリさんというアーティストを今更知ったこと。
http://www.yujimori.com/

階段

Tシャツ (服、身につけるもの)


また、でてくるキーワード。



皆さんは、『体積』という言葉の意味を、知っていますか。

Wikipediaによると、
体積(たいせき)とは、ある物体が 3 次元の空間でどれだけの場所を占めるかを表す度合いである。

だそうですよ。


あなたは、あなたの体積を知っていますか?




夢では、どんどんどんどんどんどんどんどんどんどん部屋が作られます。
扉も窓も自由自在で
どんな入り組んだ形もできます。
廊下をつくってもいいんですよ。

ずーーーーっと廊下を進んで行くと、その先の扉の向こうには、どんな部屋がありますか?